天皇が負けた戦い

天皇は神道の最高神官です。その状況で仏教が入ってきました。

587年 丁未の乱により、神道の物部氏が敗れ、仏教の蘇我氏が台頭します。
やがて、蘇我氏は天皇以上に力をつけ独裁的な政治を行いました。
それが、反発を招き、645年 乙巳の変で、蘇我氏を中大兄皇子と中臣鎌足が倒します。

中大兄皇子はのちに天智天皇になり、中臣鎌足は藤原の姓をもらって藤原鎌足になりました。
これにより、藤原氏は朝廷内で力をつけ、藤原氏は朝廷の要職を独占していきます。

天皇家の分家の子孫として、源氏と平氏もいましたが、朝廷は藤原氏で独占されているため、
源氏や平氏、他の分家は、地方で武士として暮らしていきます。

人々が増えてくると、土地が足りなくなり、朝廷は開墾を奨励します。
743年 墾田永年私財法により、開墾した土地が永遠に私有することが認められ
貴族や社寺などが開墾に力をいれ勢力を強めます。

10世紀の中ごろ、地方で力をつけた豪族や僧が反乱を起こし、天皇は武士団を形成して反乱をおさえました。
その武士団の中で、源氏と平氏の勢力が頭角をあらわします。

1156年、朝廷内で兄の崇徳上皇と、弟の後白河天皇が対立して保元の乱が起こりました。
弟の後白河天皇が勝利しますが、恩賞に不満を持った源義朝が兵を挙げます。
この源義朝に対し、天皇側が平清盛と組んで、これを倒します。1160年 平治の乱です。

平清盛に敗れた源義朝は殺され、息子の頼朝は伊豆に流されました。頼朝は伊豆で北条政子と知り合い結婚します。

一方、平氏も調子に乗って諸国に不満を持たれ、打倒平氏で諸国があつまり、
伊豆に流されていた、源頼朝を旗印に、1185年 壇ノ浦の戦いで平氏は滅ぼされました。

復讐を果たした源頼朝は、鎌倉に幕府を作ります。幕府とは朝廷の出先機関です。
そして、昔からの有力豪族の藤原氏を滅ぼし、権力を確実のものにしました。

源頼朝の死後、妻の北条氏が実権をにぎり、1221年、朝廷と戦います(承久の乱)。
朝廷と朝廷の出先機関である幕府の戦いです。

この戦いに、北条氏が勝利し、天皇には実権のない武家中心の社会になりました。

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