【明治維新150周年記念】一度は行くべき西郷隆盛の史跡4つ

明治維新150周年として、今回は鹿児島市内のいたるところにある西郷隆盛に由来する史跡を紹介してこうと思います。

明治維新を語る上では欠かせない人物、西郷隆盛がこの鹿児島の地でどのような人生を送っていたのかを知ることが出来ます。

鹿児島県民でも意外と知らないような史跡がたくさんありますので、そのうちの少しを紹介していきますよ!

月照上人之墓

真冬の錦江湾にバシャーン!と入水自殺・・・。

今から160年ほど前、西郷隆盛と月照は錦江湾の真ん中で、入水自殺を図ります。

西郷隆盛は、恩師である島津斉彬が病気で急逝したことや、倒幕を思うように進められなかったことで、この世を悲観してました。

月照は清水寺の住職で、西郷隆盛と一緒となって、幕府に歯向かうような政治活動を行なっていたため、幕府の罪人として薩摩(鹿児島)まで西郷隆盛と一緒に逃げおおせてきたのでした。

しかし薩摩藩は、島津斉彬が急逝してパニック状態。幕府の罪人をかくもうような余裕はありません。そんな状態の薩摩藩から下された命令は【日向(宮崎)への追放】でした。

西郷と月照は、ここでついに全てを諦めます。船に乗り錦江湾のど真ん中、2人は入水自殺を図りました。

西郷隆盛は部下になんとか助けられましたが、月照はそのまま亡くなります。

そんな壮絶な最期を迎えた月照の墓が、ここに建てられています。

場所:鹿児島県鹿児島市南林寺町23 

ちなみに西郷隆盛が入水自殺した後に助けられ、救命措置がされた家が今も残っています。

西郷隆盛蘇生の家

場所:鹿児島県鹿児島市吉野町9771

私学校跡

今でも弾痕が残る石壁

私学校では、旧鹿児島城(鶴丸城)内に陸軍士官養成のための「幼年学校」「銃隊学校」「砲隊学校」の三校を設立しました。この私学校では、読み書きの勉強と軍事訓練が主に教わっていました。

西郷隆盛が最期を迎えることとなる西南戦争は、新政府軍と、この私学校を学び舎とした同志たちとの内乱でした。同志たちの新政府への不満を抑えるべく設立した私学校でしたが、同志の勢いに押され、くしくも西郷隆盛自身も一緒となって戦ったのでした。

この西南戦争の激戦地こそが、この私学校周辺であり、今も残存する石壁が当時の戦いの激しさを物語っているのです。

場所:鹿児島県鹿児島市城山町8番1号

西郷隆盛 南洲翁 洞窟

西郷隆盛、最期の6日間を過ごした洞窟

西南戦争真っ只中、西郷隆盛はついに城山に追い詰められ、政府軍は城山を取り囲むような陣形をとっていました。そのとき薩軍は300人余り、それに対して政府軍は40000人。

西郷隆盛は死を覚悟して城山を下山する直前までこの洞窟で、最期まで指揮を執っていました。

場所:鹿児島県鹿児島市城山町19

西郷隆盛 終焉の地

「晋どん、もうここらでよか」

政府軍 VS 薩軍 の西南の役は西郷隆盛の自害により終結しました。

政府軍により発せられた銃弾2発が、西郷隆盛の太ももと腰を撃ち抜きました。

死を悟った西郷隆盛は、「晋どん、もうここらでよか」と別府晋介に介錯(首切り)を頼みます。

政府軍の総司令官である山県有朋は亡き西郷を偲び、

「翁はまことの天下の豪傑だった。残念なのは、翁をここまで追い込んだ時の流れだ。」

と語り、いつまでも黙祷し続けたと言われています。

場所:鹿児島県鹿児島市長田町19−37−2 

他にもたくさんの史跡があります。

鹿児島は日本の歴史上とても重要な場所であり、たくさんの史跡が今も残存しています。

今回紹介したものは氷山の一角で、あとは実際に現地に行って見ても良いですね。

鹿児島観光がてら、明治維新にまつわる史跡などを探索してみてはいかがでしょうか?

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