【西郷どん】明治維新を駆け抜けた薩摩の偉人

鹿児島は2018(平成30)年に明治維新から150周年という大きな節目を迎えます。この節目を迎えるにあたって、2012(平成24)年から2018(平成30)年までの期間、「明治維新150年カウントダウン事業として、明治維新までの激動の時代を歩んできた薩摩藩の足跡を振り返るイベントなど様々な取組を実施しています。

明治維新とは

江戸時代末期(幕末)から明治時代初めにかけて進んだ、政治的、社会的変革をいいます。

※「維新」の意味は、いろいろなことが改革されて、みな新しくなることです。

幕府に関する職制を次々に廃止し、伝統的な旧体制(幕藩体制)の土台を根絶やしにし、天皇を中心の中央集権体制、資本主義化をスタートさせ、西洋文化を積極的に取り入れるなど文明開化政策を推進させるなど、まったく新しい日本に生まれ変わろうとしていたということです。

そこで、明治維新を駆け抜けた人物の一人、薩摩の偉人の西郷隆盛を紹介していきたいと思います。

【西郷隆盛】はどのような人だったのでしょうか?

西郷隆盛は、薩摩藩(今の鹿児島県)出身で、幕末に活躍し、明治維新を成し遂げました。しかし、優れたリーダーぶりを発揮したにもかかわらず、明治10年にその明治政府と戦い、敗れて自決します。

【西郷隆盛】年表

1828年(0歳):薩摩国(今の鹿児島県)で生まれます。

1854年(26歳):薩摩藩の殿様、島津斉彬(しまずなりあきら)に仕えます。隆盛はこの島津斉彬をとても尊敬していて、斉彬が亡くなった時に後を追いそうになりました。

1864年(36歳):禁門の変が起こります。西郷隆盛は薩摩藩の軍隊を率い、長州藩の軍隊に勝ちます。

1866年(38歳):坂本龍馬らの仲介で、薩摩藩と長州藩が薩長同盟を結びます。

1868年(40歳):江戸幕府の勝海舟と交渉して、江戸城の開城に力を尽くします。

1871年(43歳):岩倉使節団が欧米視察に出発します。

1873年(45歳):隆盛は、征韓論(今の朝鮮半島に出兵するという主張)を唱えますが、日本へ帰国した岩倉使節団の【大久保利通】らに意見を退けられたため、明治政府をやめて、故郷の鹿児島へ帰ります。

1874年(46歳):鹿児島に私学校(地元の若者を育てる組織)を設立します。

1877年(49歳):隆盛は西南戦争を起こしますが、破れて城山にて自決します。

なぜ西郷隆盛は西南戦争を起こしたのでしょうか?

実は、西郷隆盛は西南戦争に対して、ほとんど自分からは何もしていませんでした。隆盛は鹿児島の人達によって担がれていた、御神輿のような存在だったのです。

この時代、士族(江戸時代に武士だった人達)の不満がとても高まっていました。なぜなら、刀を持てるとか、給料(米ですが)を貰えるといった武士の特権を、明治政府に次々と取り上げられたからです。

これを不満に思った士族は、今の山口県や佐賀県で相次いで反乱を起こしますが、いずれも明治政府に鎮圧されていました。

西郷隆盛が鹿児島に帰ったのはそういう時期です。

鹿児島に帰った隆盛は、私学校という若者を育てる組織を作ります。武器を手に立ち上がろうとする若者を、組織で抑えるためだったかと思いますが、私学校の規模が大きくなるにつれ、政府もスパイを送り込むなど対策を始めます。政府の動きを知った私学校の生徒たちの一部は、政府の火薬庫を襲撃し武器を奪ってしまいました。

隆盛はその知らせに「しまった」と叫んだと言います。薩摩の若者を心配すると同時に、その先にある自らの運命をも見抜いていたのかもしれません。

隆盛の西南戦争へのかかわり方は、若者たちの運命に自ら寄り添ったと思います。

出典:西郷隆盛ってどんな人?年表や西南戦争を小学生向けに解説!

個人的感想

鹿児島に住んで20年位なりますが、歴史の事など分かりませんでした。西郷隆盛という名前は有名で知っていましたが、今回初めて若者を育てる私学校を設立したり、西南戦争で破れ、49歳の若さで自決していた事を知る事が出来ました。

これから少しずつ郷土の偉人について学び、鹿児島の歴史に詳しくなりたいと思います。

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