【大久保利通】明治維新の中心的な人物

近代国家を目指した明治維新の中心的な存在が、「大久保利通」・薩摩藩(鹿児島県)の代表「西郷隆盛」・長州藩(山口県)代表「木戸孝允」の3人でした。

彼らは、維新の三傑(いしんのさんけつ)と呼ばれ、日本の近代化に力を注ぎました。

維新の三傑の一人、大久保利通について調べて一番驚いたことは、元内閣総理大臣(第92代)麻生太郎さんは、大久保利通の玄孫にあたるそうです!!

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大久保利通は薩摩藩(今の鹿児島県)出身で、薩摩藩の下級藩士の家に生まれ、幕末、殿様の信頼を得て西郷隆盛とともに薩摩藩をリードし、幕府を倒すために朝廷への働きかけなどを行い、今の日本という国の形を作り上げた、非常に優れた政治家です。

大久保利通は、1830年に薩摩藩(現・鹿児島県)の武士の家に、長男として生まれました。父は大久保利世、母は福です。幼い頃からちょっと体が弱く、スポーツは苦手な方で、読書や勉強を好んでいました。

※のちに倒幕から明治維新まで活躍する西郷隆盛とは、幼なじみの関係で一緒に時間を過ごした大切な友人でした。

利通が20歳の頃、父が薩摩藩主の後継者トラブルに巻き込まれ、父は島流しに、利通も謹慎の身となりました。

その後、薩摩藩主が島津斉彬になると、利通親子の謹慎は無事に解かれ、斉彬の死後は、新薩摩藩主の島津久光の側近としって活躍します。

大久保利通の年表

1830年(0歳):薩摩国(今の鹿児島県)で生まれました。

1853年(23歳):薩摩藩の殿様・島津斉彬に仕えます。

1858年(28歳):斉彬が突然病死し、新しい殿様・島津忠義の父である久光が実験をにぎります。

1861年(31歳):久光の信頼を得た利通は、御小納戸役(おこなんどやく)という藩の重役に抜擢されます。

1862年(32歳):久光と共に京都にのぼり、朝廷を動かして、幕政改革を促します。利通は御側役という久光の側近に抜擢されます。

1867年(37歳):薩摩は長州とともに倒幕を目指しましたが、徳川慶喜による大政奉還が実現したため、武力倒幕は出来ませんでした。

王政復古を宣言する小御所会議では、利通も参加し、徳川勢力の排除に成功しました。

1869年(39歳):明治政府の参議に就任し、版籍奉還、廃藩置県を実施します。

1871年(41歳):大蔵卿に就任したのち、岩倉使節団の副使として1年半にわたりアメリカ、ヨーロッパを見学します。

1873年(43歳):帰国後、内政に専念することを主張し、征韓論を退けます。西郷隆盛らが政府から去りました。

内務省を設置、自ら内務卿に就任すると学制、地租改正、徴兵制などの政策を行います。

1877年(47歳):西南戦争が発生、京都にて政府軍の指揮にあたりました。

1878年(48歳):石川県士族の島田一郎ら6名により暗殺され死去しました。

出典:大久保利通の年表を小学生向けにわかりやすく解説!

個人的感想

 

大久保利通は西郷隆盛と同じように、薩摩藩の身分の低い武士の家に生まれ、同じように苦労して、武士として活躍しましたが、最後は征韓論で意見がぶつかり合い、48歳の若さで暗殺されてしまいます。

大久保利通と言えば、優秀な政治家だったためなのか、生きているときは恐れられ、尊敬はされたみたいですが、慕われはしなかったそうです。その反面、西郷隆盛は生きているときも、死んだ後も多くの人に慕われたそうです。

友達同士でも、敵味方にわかれた大久保利通と西郷隆盛、それだけ政治の世界は厳しいものだという事が少しわかりました。

※征韓論とは、武力をもって朝鮮を開国しようとする主張です。

あなたはどちらの生き方を望みますか?

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